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大阪地方裁判所 昭和58年(わ)1093号 判決

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中二一〇日を右刑に算入する。

押収してある文化包丁一本(昭和五八年(押)三九三号の一)を没収する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、スナツクを営んでいる妻マサ子が自己に冷淡になり、外泊を重ねたりしていることから同女が松本俊男(当時四三年)と情交関係をもつているのではないかと強く疑つていたところ、昭和五八年二月二八日午前零時ころ大阪市平野区平野西四丁目三番一六号NKプラザ一階所在の自己の経営するスナツク「鈴蘭」に、右松本が女性一名を伴つて客として訪れ、酒を注文して飲み始めたが、同店は、同月三日に開店したばかりであつて、そのことを右松本に知らせていないのに同人が来たので、同店の開店を知つた理由を尋ねたところ、同人が右マサ子から聞いて知つた旨答えたので、もともと右松本と顔をあわせたくなかつたのに右マサ子が開店を教えたことに強い不満を抱き、かつ、同女と右松本との関係についての疑を一層深め、強い不快の念を抱きながらもそのまま時をすごすうち、右松本が同店内から、右マサ子の経営しているスナツクへ電話をかけ、同女に対し、右鈴蘭に来るようくり返し誘いかけているのを聞き、その慣れ慣れしい会話の調子からいよいよ右の疑を深め一層不快の念をつのらせていたが、同日午前二時ころ、右マサ子が同店内に入つて来たのを認めるや、来るはずがないと思つていた同女が右松本の誘いに応じてやつて来たことに激怒し、同女に対しその場にあつたウイスキーの空びんを持つて振り上げ、「お前はなんで来たんや」と怒鳴りつけたところ、右松本から右空びんを取り上げられたばかりか、掴みかかられ、カウンターの奥に押しやられ、左手でネクタイのあたりを掴まれ、右手拳で頭部、顔面をくり返し殴打され、首を絞めつけられるなどのかなり激しい暴行を受けたけれども全く無抵抗でされるがままになつていたが、右マサ子が右松本に対し、「あんた、やめて」と呼んで制止しているのを聞き、同女のこの言葉遣いから、同女と右松本とは情交関係をもつているものと確信するに至り、右両名に対し言いしれない腹立ちを覚えたものの、間もなく右暴行をやめてカウンター内から出て元の席に戻つた右松本からウイスキーの水割りを注文されたので、三人分のウイスキーの水割を作つて差し出し、「なんで殴られなあかんのかなあ」などと思わず小声でつぶやいていると、またもや、右松本から「お前まだぶつぶつ言つているのか」と言うなり手許の右ウイスキー水割の入つたガラスコツプのほか灰皿、小鉢などを次次カウンター内にいる被告人に投げつけられはじめた。ここに至り、被告人は、同日午前二時二五分ころ、自己に対する右松本の右のような暴行を制止し、かつこれから逃れるため、調理場から文化包丁一本を持ち出し、同人に向つて思わず「表に出て来い」と怒鳴つて威嚇しながらカウンターから出て同店の出入口に続く短い通路を通つて表へ出て行こうとしたところ、同人から客席にあつた高さ約一・二メートルの金属製の歌唱用譜面台を投げつけられ、「お前、逃げる気か、まだ文句があるなら面と向つて話しせえ」と怒鳴りながら後を追いかけられ、右通路内で背後から肩を掴まれたので、自己の身体を防衛するため、右松本を死亡させるに至ることになつても敢て辞さない気持で、防衛に必要な程度をこえて、ふり向きざま、右手に持つた右文化包丁で同人の右胸部を一回突き刺し、よつて、そのころ、同所において、同人を大動脈起始部切破による心嚢血液タンポナーデにより死亡させたものである。

(証拠の標目)(省略)

(法令の適用)

被告人の判示所為は、刑法一九九条に該当するところ、所定刑中有期懲役刑を選択し、右は過剰防衛であるから同法三六条二項、六八条三号により法律上の減軽をし、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用し、押収してある文化包丁一本(昭和五八年(押)三九三号の一)は判示殺人の用に供したもので被告人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号、二項を適用してこれを没収し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとする。

(弁護人の主張に対する判断)

一  弁護人は、被告人は、本件犯行の直前に、本件被害者松本から頭部を激しく殴打するなどの暴行を加えられたため脳震盪型の頭部損傷を惹起し、そのために意識障害を起し、本件犯行を含めてその前後の模様を認識もしていないし記憶もしていない状態であり、そのような状態で本件所為に出た被告人には殺意はなかつたものであり、また、被告人は、本件犯行時には心神喪失の状態にあつたものである旨主張する。そこで以下において検討する。

1  殺意について

被告人は、当公判廷(第三回)において、判示事実のうち、本件被害者松本からグラスや灰皿などを投げつけられはじめた時点までの状況は記憶しているが、調理場から文化包丁を持ち出したことを含めてそれ以降本件犯行を終えて、店の外で表の扉を叩いて店内に入ろうとした時点までの間の記憶が全くない旨供述している。しかしながら、前掲各証拠によると、なるほど、被告人は、右松本から頭部、顔面に対しかなりの暴行を受けてはいるものの、その暴行の態様は、同人が被告人のネクタイを左手で掴み、右手拳で頭部、顔面を殴打しあるいは首を絞めるというものであつて、これにより被告人が付近の調度品に頭部を打ちつけたり、床上に転倒して頭部を床面に打ちつけるというような事態にまでは至つていないし、被告人は、右の暴行を受けながらも妻マサ子が右松本を制止しているのを認識しており、暴行が終了した後も同人の命により、若干のやや細い手数をかけてウイスキーの水割三個を作つて右松本に提供していることが認められ、しかもその後、そのグラス等が被告人の方へ向けて投げられるのを認識していたというのであるから、被告人が右松本から頭部、顔面を殴打されたことにより、たとえ脳に震盪を生じたようなことがあつたとしても、それにより、その情況の認識力を喪失したり記憶障害を生じたりしたものとは認められない。そして、前掲各証拠によると、被告人が記憶していないと述べている被告人の所為は、要するに、調理場から文化包丁を持ち出して右松本に対し「表に出よ」と怒鳴つて通路内に入り、途中、背後から来た同人を右文化包丁で一突きして表にとび出した後、閉め出されたので表の扉を叩いて中へ入ろうとするまでの極く短時間内に行なわれた単純な一連の流れのものであることが認められるから、その前後については記憶があるのに、右の時点だけの記憶が全くないというのは不自然である。証人武田正憲の当公判廷における供述によると、捜査段階における取調に対し、被告人は、当初は右の点の記憶がないと言つていたけれども、結局は、逮捕された日のうちに右松本を刺したことを認めるに至つたことが認められることをも併せて考えると、被告人は、本件犯行時の細部はともかくとして、すくなくとも文化包丁を持ち出して通路において背後から右松本に肩を掴まれ、右文化包丁で同人の胸を一突きしたという程度のことは記憶しているものと認めるのが相当である。そして、前記認定の犯行の動機、態様、使用した兇器の種類、形状、性能及び傷害の部位、程度から考えると、被告人には、確定的殺意はともかく、すくなくとも未必的殺意があつたものと認めるのが相当である。

2  責任能力について

前掲各証拠により認められる被告人の本件犯行の動機、態様には、この種事犯として特に異常なものはなく十分了解可能であり、被告人が犯行当時是非の弁別心及びこれに従つて行動する能力を全く有しなかつたとか、これが著しく低下していたものと考えるべき事情は認められないから、被告人は本件犯行当時心神喪失とか心神耗弱の状態にあつたものと認められない。

二  つぎに、弁護人は、被告人の本件所為は、前記松本から頭部、顔面を殴打され、グラス等を投げつけられ、歌唱用譜面台を投げつけられるなどの急迫不正の侵害に対して被告人の生命を防衛するためなしたもので正当防衛にあたると主張する。

そこで検討するに、判示のとおり、被告人は、前記松本から頭部、顔面をかなり激しく殴打され、首を絞めつけられたばかりかグラス、灰皿等を殴げつけられ、さらに文化包丁を持つて通路を通つて外へ出ようとした際にも金属製の歌唱用譜面台を投げつけられ、背後から肩を掴まれるという一連の暴行を受けたわけであるが、歌唱用譜面台は被告人に当つたわけではなく、これら一連の被告人に対する攻撃は、危険な兇器を使用してのものではなく、むしろ素手による攻撃ないしこれに準じるものと考えて差支えのないものであつて、被告人の生命に対する侵害ないし侵害の危険性があつたものとまでは認められず、被告人の身体に対する攻撃に帰着するものと考えられるから、これに対し文化包丁で右松本の胸部を突き刺し心臓に達する刺創を与えて同人を死亡させる所為に出たことは、侵害の程度に比して防衛行為の程度が著しく大きく、防衛の程度を超えたものといわなければならず、被告人の本件所為は、正当防衛ではなく、過剰防衛にあたるものといわなければならない。

もつとも、被告人は、司法警察職員に対する昭和五八年三月七日付及び検察官に対する各供述調書において、被害者松本からグラスなどを投げつけられるに及び同人に対し殺意を生じた旨供述しているところであり、そして判示のとおり調理場から文化包丁一本を持ち出して同人に対し「表に出て来い」と怒鳴つてカウンターを出て、通路を通つて表へ出ようとしたということになるのであるけれども、被告人が、右松本を真実右文化包丁で殺害する意図を有していたのであれば、右文化包丁を持つや直ちに同人の居る方へ立向つて行つて攻撃を加えるなどの所為に出て然るべきであるのに、むしろ、右のように怒鳴つておきながら同人に背を向ける態勢で通路へ入つて出口の方へ向つており、その際、被告人には、殺害の場所を店内では支障が生じると考えて店外を選択する程の心理的余裕があつたものとは前後の事情から考えられず、また、右松本を一回突いた後直ちに店外へとび出しており、同人に再度の攻撃を加えていないし、攻撃を加えようとした形蹟が全く認められないところから考えると、被告人の右文化包丁を持つて「表へ出て来い」と怒鳴つて通路へ入り出入口へ向つた所為は、決して右松本を殺害する目的に出たものではなく、むしろ、同人から攻撃が続けられているので、これを制止し、かつこれから逃れるためのものであつたものと認めるのが相当である。その直前の段階で被告人に殺意が生じて殺意をもつて右のような所為に出たという被告人の右各供述調書における被告人の供述は信用できない。

以上の次第で、弁護人の主張はいずれも採用することができない。

よつて、主文のとおり判決する。

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